神さまブログ~飛鳥の風~

 子供の頃から神仏とのご縁が深く 各地の神社仏閣を巡っています。 神仏や土地のご供養をさせていただきながら たくさんの智慧とパワーをいただきました。  ご縁のある方に神仏のご加護をお届けできれば幸いです。

カテゴリ: ささやき

 ジョージ・マロリーをご存知ですか?
エベレスト登頂を目指したイギリスの登山家です。

「(なぜ登るのか?)そこに山があるからだ」(正確には「エベレスト」と言ったそうです)のセリフは聞いたことがあるのではないでしょうか?


 おはようございます刀自古郎女です。
霊的な体験でなくても神々の意思を感じる瞬間があります。

今日はそんなお話を…。 



 1924年6月 マロリーとパートナーのアービンは山頂アタックを試みます。

2度の失敗を経て3度目の挑戦でした。

ベースキャンプに残ったオデールという青年が以下のような記録を残しています(Wikipediaより)


 12時50分頃だった。私が初めてエベレストで化石を見付けて大喜びしていたまさにその瞬間、空が突然晴れ上がり、エベレストの山頂が姿を現した。私は山壁に1つの小さな点を見出した。それは大きな岩塊の下、雪の上に浮き出た小さな点だった。やがて雪上にもう1つの小さな点が現れ、最初の点に追い付こうと動いていた。第1の点が岩の上にとりつくと第2の点も続いた。そこで再び雲が山を覆い、何も見えなくなった。 


 その後 二人は消息をたち帰らぬ人となりました。

 マロリーとアービンは登頂できたのか?

マロリーはカメラを持っていたといいます。

そのカメラにエベレスト登頂の証拠が写っていれば…彼らは人類初の偉業を成し遂げたことになります。

 マロリーのカメラ…人類のエベレスト登山史のミステリーです。
 

 マロリーの遺体が発見できれば最期の状況がわかるかもしれない…ということで何度か捜索隊が編成されました。

 1999年 エベレスト山頂付近の北壁で発見。

状況から滑落のため命を落としたと見られています。
「登頂後に滑落したのか?」「登頂できなかったのか?」議論になりましたが結論は出ませんでした。 

決定的な証拠になりうるカメラは見つかりませんでした。

 

 

1953年5月19日 人類初のエベレスト登頂。



 マロリーが登頂については謎のままですが 私は登頂できたと信じたいです。


 冒頭のオデールの回述…を聞いた時 私は怪談だと思いました。
キャンプに残ったメンバーの一人が たまたま山を見上げた時 たまたま雲が晴れて二人の姿が見えた。
点粒サイズの人間です。動いていなければ「人」と認識できなかったでしょう。
それは偶然ではなかったかもしれない。
山の神々が山を愛したマロリーの軌跡を見せてくれたのかもしれない…そんなふうに思いました。 
神々の山嶺はその後も多くの者たちの憧れとなり 多くの命を吸い込んでいきました。

 マロリーとアービン そしてエベレスト登山で命を落とされた方々のご冥福をお祈りします。


感謝 刀自古郎女 

 AdobeStock_271868913





  

 あなたの故郷はどこですか?
おはようございます刀自古郎女です。

 私は江戸っ子でありまして(3代前から江戸に住んでいる)…今は埼玉県民ですが(・∀・)
「故郷は?」と聞かれれば迷いなく「江戸」と答えるでしょう。
生まれ育った懐かしい土地…たくさんの思い出が詰まった場所です。

 
 「久しぶりに帰って来たーー❤️NY!」
Facebookに友人の日記があがりました。

 彼女は紛れもなく日本人です。(出身地は詳しく知りませんが東京近郊) 
それどころか、ミドルエイジになるまでNYへ行ったことはなかったそうです。
 ところが空港を降りて街に出た瞬間「ここは私の故郷だ!」と身体が震えたそうです。
 海外へ行って空港を降りると「来ちゃった〜〜!!」って高揚感が湧くのは理解できます。
そこは異国であり私たちは旅人で…トラベラーズテンションとでもいいますか「イェ〜〜〜〜イ!!この街が好きだぜ!!」…と叫びたくなりますよね。(わ…私だけ??)
 でも彼女が感じたのは「ここが故郷だ」という強い実感。
街の端々に思い出が染み付いている…そんな感じ。
 以来 頻繁にNYを訪れて「帰って来たー!」と記事を上げます。
生まれた時から そこにいたような笑顔。
本人も不思議がっていますがNYは紛れもなく彼女の「魂の故郷」なのでしょう。

 「思い込みじゃないの?」という人もいます。 でも 私には彼女の気持ちがよくわかります。
 何回目かの大阪出張…それまでは一緒に動いていたチームも進捗に合わせてバラバラのタイミングに。
宿と新幹線の切符を手配してもらって二日目(予備日なので自由時間)にどこへ行こうか悩んでいた時のことです。
 「飛鳥の大仏見てきたら?」…と旦那。
曖昧に返事をして電話を切ってため息を吐きます。
旅行前に「飛鳥」を調べたけど見つからなくて 新大阪駅で買った地図にも載ってなくて…諦めていたのです。
 ホテルの部屋に戻って引き出しを開けたら「明日香風」という小冊子が!!ここで初めて飛鳥=明日香であることを知ります。
フロントへダッシュして行き方を聞いて 翌朝は早めにホテルを出ました。
 偶然にもホテルのすぐそばが飛鳥方面行きの電車の駅。

 駅でタクシーを拾って初めての飛鳥。
入り口にある小さな丘を見た瞬間に「あぁ…ここは私の故郷なんだ」と実感しました。
 おかげさまで その後も さまざまなイベントに参加させていただき 飛鳥応援大使にも就任させていただき 本当に感謝しかありません。
 年に数回は訪れる飛鳥はどの季節に行っても魂にズンと響きます。
 京都から近鉄に乗り込んだ瞬間に江戸っ子から飛鳥人に ジョブチェンジ(😆)。
飛鳥の風景の全てが愛おしく懐かしい…って 文章にすると安っぽいなぁ…。

 魂は何度も生まれ変わりますから「飛鳥で暮らしていた私」もその中のひとりにすぎないのでしょう 。
それでも彼の地が魂に故郷として刻まれているのにはきっと理由があるはずです。
そして 思うのです。
 私が飛鳥を好きなように飛鳥も私を好きでいてくれるのかもしれない…と。

 生きているうちに「魂の故郷」と実感できる地に巡り会えるのは稀有なありがたいことだと思います。
もしも あなたが「魂の故郷」に巡り会えたなら可能な限り里帰りをして土地の歴史を知り、土地に感謝をしてください。
次の生でその地に辿り着けるとは限らないのですから…。

感謝 刀自古郎女

DSC_2591
「飛鳥で一番夕陽が綺麗な場所」タクシーで行ったので詳細はわかりません💦

 

 おはようございます刀自古です。

 浅草寺にお参りされたことはありますか?

 最寄駅から地下鉄(メトロ)で一本の浅草は子どもの頃から好きな街でした。
勇壮な雷門を潜れば 年中賑わう仲見世。
人形焼や手焼き煎餅のお店を横まで見ながら本殿へ。
「お買い物はお参りの後」が我が家のルール。

 手水舎の龍王さまに心惹かれ、ボウボウと燃え盛る香炉にお線香の束を投げ入れます。
煙を手で掬って頭に当てて「頭が良くなりますように」…肩凝りなんて知らなかった子どもの私。
大きなお賽銭箱に小銭を捧げて観音さまにお祈りします。  
本殿の傍から町に出ると見世物小屋の呼び込み。
「親の因果が子に報い…」意味がわからないままフレーズだけはしっかり覚えてしまいました。

 それぞれ一つだけ好きなものを買ってもらったら舟和で芋羊羹を求めて 門のそばの天ぷら屋さんで天ぷらを買って帰る。
そんな 懐かしい浅草。

 街の佇まいは変わってしまいましたが 大人になってからも折に触れお参りさせていただいています。
 ある日 お参りを終えて駅に向かうと真正面に東京スカイツリー。
えっ!?これってここ(浅草)だったの?
話題にはなっていましたが興味がなかったのでした、

 「あーーー…スカイツリーで珈琲が飲みたい」

 あるフランスの作家は、しばしばエッフェル塔のレストランで昼食を摂りました。
「よほど エッフェル塔がお好きなのですね?」と聞かれた彼は「パリでエッフェル塔を見なくて済むのはここだけだ」と返します。

 馴染みの場所に突如出現したランドマークは異形でしかなく…モーパッサンの気持ちがよくわかります。

 飛鳥時代の人が法隆寺の塔を見た時にこんな気持ちだったらイヤだなぁ。
そうかー…千年後のスカイツリーを愛する誰かのために私もスカイツリーを愛さなくちゃですね。  


 千年後にはこの時代も遠いノスタルジー。

感謝 刀自古郎女

 …と書いていたら法隆寺iセンター駐車場の「舟塚古墳」がホンモノの古墳だったというニュースが…。
高い建物がなかった時代、古墳もランドマークだったのでしょうね。




IMG_4108

 

 おはようございます刀自古郎女です。

 新しいプロジェクトが始まったり、前のプロジェクトが終わらなかったり…タスクの大渋滞に巻き込まれてアップアップしている今日この頃…。

夏が…終わりますね。


 …そんなこんなでプログも滞りがちで申し訳ありません!!


 新しい仕事場は神田明神さまの近くにありまして…頻繁にお参りさせていただいております。


 御祭神は大己貴命さま・恵比寿さま(少彦名さま)そして関東の英雄 平将門さまです。


 先日の朝方に平将門さまが夢枕に立たれまして
「時間を作って国王神社に参れ」 

「勇気を持ってその道をゆけ。

(参拝に伺っていることを)うれしく思う」と。

ありがたいことです。

そして…短く強い静かな口調で「書け」…💦


 …ということで 今日は平将門さまのことを書かせていただきます。


  将門の乱の後 神田明神(神田神社)の近くに将門さまの首が葬られました。(将門の首塚)

 首塚は東国の武士の崇敬を集め今でも大切にお祀りされています。


 神田神社は江戸城の拡張に伴い数度の遷座を経て今の地に落ち着かれました。


 

 日本には「三大悪人」と呼ばれている方がおられます。

弓削道鏡・平将門・足利尊氏

 わからない人はググってください(笑)
3人とも「天皇に刃向かい朝廷の存続を危うくした」ことから日本の大悪人とされました。

 さらに「日本三大怨霊」 崇徳天皇・菅原道真・平将門…にも名を連ねています。

首塚の周囲の会社では首塚に背中を向けて机を配置しないなどのタブーがいまだに生きており これほど恐れられている歴史上の人物は稀なのではないかと思います。

平将門さんはどんな人物だったのでしょう?


 平将門(以下敬称略)の乱は身内の小競り合いから始まっています。

その後 朝廷から赴任してきた役人たちの不仲に巻き込まれて関東を統一。

「八幡神と菅原道真公の御信託により」「新皇」を名乗り関東の統治を始めます。

 

 朝廷にとっていちばんの脅威は将門が「新皇」を名乗ったことで統治国家内に勝手に「皇」がポコポコ生まれたら困るわけです。

当時 藤原純友の乱や天変地異に朝廷は存続に不安を持っていたのかもしれません。

躍起になって将門を打とうとします。

将門の手勢1000人に対して5000人の兵を投入。

圧倒的な数の敵には抗いきれず940年2月14日敗死されました。


 朝廷から見ると悪人ですが関東にとっては「朝廷の支配に異議を唱え新しい関東の主権を勝ち取ろうとした」英雄だと私思っています。

当時「都からの支配されるのは あたりまえ」の世の中に各地の主権を主張したことは大きな意味があると思います。


  この討伐が理不尽なものであったことは 将門が「日本三大怨霊」に名を連ねていることからも明らかです。

正義の討伐であるならば「怨まれる」理由はないわけです。

理不尽なことをして恨みを買っていると思うから怨霊認定するのです。


 朝敵であった将門さまは江戸鎮守として今も関東を守ってくださっています。


 興味のある方は調べてみてはいかがでしょうか?




感謝 刀自古郎女


PS. 将門さまから「一歩踏みだすことに迷った者は私の元を訪れて言挙げしなさい。行動する勇気を与えよう」との伝言です。



 Photo - 1 (1)

 

 ここ数日 体調を崩してまして…関係各所にはご迷惑をおかけしました。
自己管理不足にも関わらず温かく対応してくださった皆さまには深く 深く感謝いたします。

 おはようございます刀自古郎女です。
 成人してから38.0度以上の熱を出したのは一度きり。
2泊3日の佐渡島で 1日入院。…原因不明の炎症…という💦
 佐渡へ渡る船の中で発熱して 帰りの船に乗ったら熱が下がりはじめて…ホント 怖いからやめてね💦 
 
  …というお話は置いといて…。
私にとって「高い熱 」とは37.3度くらいまでのことでそれ以上はほぼ上がりません。
そして1日で下がる。長くても2日。
 それが今回は 37.3度から38.1 度の間を4日間彷徨いました。

 でも 体調は悪くない。初日こそ完全行動不能でしたが動けば動ける程度には調子がいい。
お腹は空きません。けど それはいつものことで「集中してたら1日ご飯食べてなかった」 はしょっちゅう。「お腹が空かない時は無理に食べず免疫系にリソースを回す」と言うのが持論です。蓄えはたっぷりありますので😆

 関係各所へ連絡して「〇〇だけはやりますので」と言うと「それ 来週でいいので寝ててください」。「しばらくはこっちでなんとかします」「(回収便)止めますから休んでくださいね」…と。
みなさん めっちゃ優しい。

 土日返上で「休めない」と思い込んでいましたが「休めない理由」なんて実は存在しなかったのかも?


 お言葉に甘えて寝てばかりいました。ビックリするほどよく眠れる。

 私のようなズボラ人間でも落ち着かないのですから 日頃 ストイックな人ほど「休むこと」に抵抗があるのではないでしょうか?

 今日あたりから熱が下がったのでゆるゆるお仕事始めましたが 熱がある時とスピード感が違う!
クリアさも違う!無理して進めなくて正解だったと思います。

 病気は身体がくれたお休みのチャンス。遠慮なく甘えて 次に動き出すためのバネにした方が良いなぁ…と実感しました。
 

  モチロン健康第一!病気にならないに越したことはありません。
秋が立ったとは言えまだまだ暑い日が続きます。

ご自愛くださいませ。


感謝 刀自古郎女 

IMG_3622



 

このページのトップヘ